誰もが感じている「心が自由にならない」思いを自由にしていけるような連載をはじめました。
その第3回です。
☆このブログは「八日目の蝉」の内容に踏み込んで記述しているところがあります。これからこの小説や映画等をご覧になろうとされている方は、その点についてご理解の上、ブログをお読みください。

前回は、僕の父の思いや、祖母の思いについて書かせていただきましたが、それでは母はどんな思いだったのでしょうか。

この点について、直通、母に聞いたことはありません。
ただ、僕がカウンセリングを受けて、実は愛されていなかったとの思いは誤解いなのではないかと感じるようになると、推測ができるようになりました。
そこで、親戚にたずねてみるというやり方で確かめたのです。

すると、仕事に忙しくて放ったらかしにされたと思っていた両親の逸話をきくことができました。

あまりに子どもとの時間が取れなかった両親は、せめてどちらか片方だけでも、食事の時間に子どもと過ごせないか、いろんな工夫をしたそうです。
実際には、本当に忙しかった時期だったので、実現した回数は少なかったと思うのですが、「子どものために時間を作ろうとしてくれていた」という事実に、とても驚きました。

それは「愛されていない」と思っていたのに、「愛されていた」ことを表すことだったからです。

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「八日目の蝉」は、小説・映画という形の架空の物語です。
主人公の女性は、生まれたばかりの時に、父の愛人に誘拐され、4年間という時をその誘拐犯を本当の母親と思って育つ、という特異な設定になっています。
しかし、そこには、架空の物語とはいえ、とてもリアルな心の動きが描かれています。

4歳の時に、誘拐犯の女性が逮捕されて、初めて実の母親ではないこと、全く見たこともない男性と女性が本当の両親であることを知り、暮らしはじめます。

しかし、4年間、母ではない女性を母と思って暮した体験から、実の母を母として受け入れられません。

実の母も、そんな子どもに、自分が受け入れられないのだと、激しく子どもに当たってしまいます。

母と娘の溝は埋まらないまま、年月が過ぎていくのですが、ある出来事をきっかけに、大学生になった娘が母と向かい合うことになるシーンがあります。

映画では、お金を借りに実家に戻った時に、誘拐犯だった父の愛人と母との当時のやり取りについて、娘が非難するシーンがあります。

その時、母親は、泣き崩れながら、こう漏らすのです。


「あの時、どうして連れていかなかったんだろう。どうして家に残してしまったんだろう」

娘が誘拐された日は土砂降りの雨の日で、夫を駅まで送っていく時に、乳児の娘を一人、家に置いて出かけてしまったことを悔いているシーンです。

ほんの短い間だから大丈夫だろう、という思いだったのだと思います。

僕は、この「後悔」がこの母と娘のすべての原点であり、ここで心からの後悔を娘に表したことが、娘の中に「母の愛」として伝わっていったのではないか、と。

ここに、僕が母の思いを知った逸話とが重なって見えました。



☆ 続く ☆

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