誰もが感じている「心が自由にならない」思いを解き放つヒントにしていただけるような連載をはじめました。
その第5回です。
☆このブログは「八日目の蝉」の内容に踏み込んで記述しているところがあります。これからこの小説や映画等をご覧になろうとされている方は、その点についてご理解の上、ブログをお読みください。

さて、映画「八日目の蝉」の話です。
改めて、この映画はどんなお話なのかを簡単に書かせてもらいますと、、予告編のキャッチコピーをそのまま使わせてもらえば

「21年前、土砂降りの雨の中で起きた誘拐事件。犯人は父の愛人。誘拐されたのは私。
私は、その人を本当の母だと信じていた。」
「不倫相手の子どもを誘拐して4年間育てた女と、誘拐犯に育てられた女の話」

ということになります。

前回、私自信の母親についての話を書かせていただきましたが、この映画も「母親」というのが大切なキーワードになってきます。

物語には二人の母親が出てきます。
一人は、主人公の女性を産んだ本当の母親。
もう一人は、その女性を誘拐して育てた母親。

今回は、本当に産んだ母親、について書かせていただきます。

映画の冒頭で、誘拐されるシーンがあります。
どうして赤ちゃんが誘拐されることになったのかというと、土砂降りの朝、妻は夫を車で送っていくために家を留守にするのですが、家のどこかの戸に鍵がかかっていなかったんですね。
そこで、そこから家の中に入っていって、赤ちゃんを見つけて・・・と物語は展開していきます。

物語が進んで、主人公の女性が母親と向かい合うシーンで、泣きながら母親がこんなセリフをいいます。
「どうしてあの時、連れて行かなかったんだろう。」と。

それは、この土砂降りの雨の日に、赤ちゃんを残して出かけてしまったことを悔いてのことなんですが、私は、ここにこの母親のすべてが表わされていると思います。

心理学では、自分に価値がないという「無価値観」や、自分は悪であり罪深いという「罪悪感」という言葉があります。

この母親の女性は、この「無価値観」そして「罪悪感」をもともと、強く抱えていた人だったのではないか、と私は感じました。

例えば、幼い頃に何らかの事情があって、親に愛されなかったとか、家の状況が極めて厳しく家全体に強いストレスがかかっていて子ども心に息苦しい感じを感じながら育ったとか。
こうした状況だと、子どもは、愛されない理由やストレスの理由を、「状況」に求めるのではなく、自分が悪いからだ、という理由に結び付けてしまいます。
大人になれば、状況が許さなかったんだな、と理解できても、子どもにはそうして見ることはできません。
しかし、苦しいがゆえに、その理由を探してしまうのですが、小さな心には自分というエリアにしか、その理由を求めることができないために、結果、「自分が悪いから」こんなことが起こるんだ、というところに理由付けしてしまうことがあるのです。

これが無価値観や罪悪感の原点になることがあります。
そして、それは、幼い頃の思いであるために、成長とともに記憶が薄れ、心の奥底に埋められていきます。
あるいは、幼すぎて自覚していないこともあります。

いずれにせよ、こうした無価値観や罪悪感というのは、深層心理の中に埋まってしまうのです。
ですから、大人になってからも、自覚していないことのほうが多いのです。

この無意識の中に埋まっている無価値観や罪悪感があると、人は幸せになることを受け取ることができません。

なぜなら、「自分に価値がない」から、「幸せになる価値がない」と思い、
「自分は罪深い」から、「罪を償わなければならない」という思いがあるために、幸せな状況を遠ざけたり、わざわざ悪い方向へ自分を向かわせてしまおうとするからです。

もちろん、そんなことを表面意識で感じているわけではありません。
意識の上では、幸せになりたいし、悪い出来事は起こってほしくない、と思うのですが、無意識下に眠っているこうしたネガティブな思いが、時に、本当に幸せを遠ざけたり、悪いことを引き寄せたりすることがあるのです。

私は、映画の中の、誘拐される原因となった「赤ちゃんを一人で家に残す」シーンを観たときに、それを感じたのです。

赤ちゃんを一人で置いていくということは、やりにくいことだと思ったのです。

それでも、短い時間なら赤ちゃんだけでも、と出かけなければならない時はあります。
そうした時には、家の鍵をかけて出かけるように思うのです。

でも、この人は、家の鍵を開けて出かけてしまった。
もちろん、それだけの理由で決め付けてしまうのは、正直どうかと思うのですが、映画の中でこのお母さんの自暴自棄ぶりを見ていると、こんな風に思えてきます。

それは、深層心理からみると、「赤ちゃんに何かが起こってもしかたない」という気持ち、もっと言えば「何かが起こることをのぞんでいた」ととらえることができるように思うのです。
それは、「罪深い私には、罪を償わなければならない事態が起こらねばならない」という無意識の罪悪感がそうさせたのではないか、と思ったのですね。

物語では、この母親は、わが子が誘拐されたことで、毎日が地獄のようだった、と本当に苦しい胸のうちを告白しています。それは本当にそうだと思います。
ところが、無意識の領域で見たときには、そこに、全く別の思いが隠されていたのではないか、と思うのです。

ところが、この罪悪感は自覚していないがゆえに、自分ではどうすることもできません。

物語では、この母親の罪悪感を解放する役目を、その娘がやっていくことになったのではないか、と私は思います。

主人公である過去に誘拐された娘が、過去をさかのぼって、置き去りにしてきた、いろいろな思いを思い出し、取り戻す中で、母親との絆を感じ、そのことで、この母親自身の罪悪感も解放していく、という展開になっていったと思うのです。

この連載の最初のほうで、私の家が抱えていた「悲しみ」の話を書かせていただきました。
これはひとつの「罪悪感ストーリー」と言えるでしょう。
私がこの映画を観て、自分の母親のことや実家のことを思い出したのは、私と母親、そして私と私の家が持っていた様々な罪悪感が、私自身が自分を癒していく中で、私の罪悪感だけでなく、母親や父親や祖母、という家全体の罪悪感が変わっていくことを体験していたからなのではないかと思います。
「悲しみのストーリー」「罪悪感のストーリー」は変えていける、ということだと思うのです。

☆ 続く ☆

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