誰もが感じている「心が自由にならない」思いを解き放つヒントにしていただけたら、との思いから、この連載をはじめました。
その第9回です。
☆このブログは「八日目の蝉」の内容に踏み込んで記述しているところがあります。これからこの小説や映画等をご覧になろうとされている方は、その点についてご理解の上、ブログをお読みください。

前回は、私たちは、幼い頃の記憶をあまり覚えていないゆえに、
ある意味、自分の記憶というのは、自分の都合のいいように書き換えてしまうことがある、というお話でした。

記憶がある時代に辛い状況だと、記憶のない時代もきっと苦しかったにちがいない、と思ってしまう。

そして、人の記憶は、喜びや楽しかった思いよりも、辛く悲しい思いのほうが強く記憶に残ります。

実は、苦しいことだけでなく、楽しい事もあったのに、それがなかったかのように思ってしまうことがあります。

映画「八日目の蝉」では、誘拐犯に4歳まで誘拐されていた主人公の恵理菜が、この事件をきっかけに、家庭が壊れてしまい、ヒステリーな母、無気力な父の中で、複雑な思いを抱きながら成長していきます。

誘拐事件が解決して、本当の家庭に戻った恵理菜。
4歳まで誘拐犯を母と信じて育った恵理菜は、実の両親になじめません。
また、それまで小豆島という自然の中で育っていたので、都会の生活にもなじめなかったのでしょう。

なついてくれない恵理菜に対し、母親は時にヒステリックに恵理菜を責めてしまいます。

恵理菜の両親が苦しみ、時に、恵理菜にも辛くあたるのは、決して子どもに原因があるわけではありません。

もちろん、誘拐犯、誘拐事件によってです。

しかし、恵理菜は、自分がすべて悪いのだ、と感じて、心を閉ざして成長していきます。

子どもは、親が苦しんでいると、それが経済的な理由や、祖父母と両親の人間関係など、子どもとは関係のない状況であったとしても、自分が原因であるように感じてしまうことがあります。

両親が苦しんでいるのは、私にこんなに辛くあたるのは、すべて自分が悪い子だから。
こうした思いから、自分は愛される価値がない、というストーリーを描いていきます。

この思いは、子どもの誤解です。
自分は悪くないのに、まるで自分が悪かったかのように自分の歴史を自分の感じたように書き換えていきます。

この誤解を解いていくためには、本当の自分の記憶を取り戻す必要があります。

自分が幼少の頃、両親がどんな状況だったのかを知ること。

そして、今だからこそ聞ける、当時の話を聞いてみる。
直接聞けなければ、親戚や周囲にいた人に聞いてみる。

集まった情報と、当時の両親の心理分析して足し合わせていけば、本当の歴史がわかってくることがあります。


恵理菜は、物語の中で、誘拐されていた時に住んでいた場所を訪ねて歩くことで、忘れてしまった過去の記憶を段々と取り戻していきます。

「自分探しの旅」という言葉がありますが、この物語もそうした表現がされていました。

自分のルーツを探っていくことで、本当の自分の姿がわかる。

それは、自分には罪はない、ということ。
両親にも、やり方はまずかったかもしれない、不器用だったかもしれないけど、止む得ない事情があったのだということ。

自分は愛されていたかもしれない、という思いは、自分は愛されてもいい、愛される価値がある、との思いを持っていきます。

こうして自分を取り戻していくことで、自分は自分らしくいてもいい、ということを実感していくことになるのです。

これが「カウンセリング」の手法だと私は考えます。

映画「八日目の蝉」を私が観た頃、不思議なことに、私のカウンセリングを受けてくださっていたクライアントさんが、何人も映画を観ていました。

クライアントさんが口々に言われていたのが「まるでカウンセリングみたい」という言葉です。

自分のルーツを知ること。
自分の忘れていた過去や状況を想像し材料を集め、当時の両親の心理を知ること。

それが、自らの記憶を「愛されなかったストーリー」に書き換えてしまった心を、解放することにつながります。

今度は、それを「幸せのストーリー」に描きなおすことにチャレンジしていくことができるのです。

☆ 続く ☆

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